2012年5月24日 (木)

生田緑地 ばら苑

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 生田緑地の高台にあるばら苑は、向ケ丘遊園の閉園後、園内に整備されていたばら苑に限って、存続引き継いだものだという。春と夏のシーズン中、一般公開され、今が盛りだ。

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 360度緑に包まれたばら苑には、4700株のばらがいっせいに咲き誇り、目にまぶしい。案内によると、イングリッシュ・ローズ、オールド・ガーデン・ローズ、モダン・シュラブ・ローズ……などなど、多くの種類の薔薇があり、プリンセス・ミチコ、天津乙女、黒真珠などの名前が付けられているが、ひとつひとつを鑑賞する前に、圧倒されてしまい、ただただ、薔薇の海を漂ううちに、時間が過ぎてしまう。

Barazennkei2_3実は今回19日(土)と、24日(木)の2度、このばら苑を訪ねることとなった。1回目のとき、うっかり苑内にカメラを置き忘れ、ふたたび、受け取りに行ったという、自慢にならない話。

 ただ、おかげで、咲き誇るバラを、その真っ盛りに2度出会うことが出来た。

 ばら苑は、市民のボランティアの方々で運営されていた。みなさん、大変おだやかで、ばらを愛する人たちばかりのよう。ご自分たちも関わって晴れの日を迎えている薔薇たちを、ひとりでも多く、披露したい、味わってほしいという、感じであり、一元客のわれわれも、ついその気になってしまう雰囲気だった。
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  いったん置き忘れたカメラには、多くの写真が記録されていた。今回紹介するのが、そのうちの一部だけなのが心残りだけれど、ばらに堪能した記憶を収めたカメラが戻って、一安心だ。

各写真はクリックすると拡大します。大きな画像で、お楽しみ下さい。

<撮影日>2012年5月19日、24日

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2012年5月23日 (水)

定家葛(ていかかずら) 2012

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 生垣の定家葛(テイカカズラ)が、5月の風の中で、香りを醸し出している。白い花が、いま、真っ盛りだ。

 歳時記をひもとくと~~~

 『定家葛はキョウチクトウ科の蔓性常緑植物。山野に自生し、茎から気根を出し、他の樹木に巻きつき、10m近くも這い上がることもある。初夏、葉柄や茎の先に香りのある白い花が集散状に咲き、のち黄色に変わる。花冠の咲きは五裂し、風車状にねじれる。葉は対生し厚く光沢があり、楕円形である。葉は乾燥して解熱、強壮剤とする。定家葛の名は、鎌倉時代の歌人藤原定家が式子内親王(しょくしないしんのう、後白河天皇の皇女で歌人)との恋の末、内親王亡き後も墓にまつわり生えたという言い伝えによる』

Teikakazura1   写真をよく見ると”花冠の咲きは五裂し、風車状にねじれる”の通りだ。

 さらに”葉は対生し厚く光沢があり、楕円形である”~~~

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  また、”他の樹木に巻きつき、10m近くも這い上がることもある”とあるが、いま、生け垣にしっかり巻きついており、放っておくと、これから夏から秋にかけて、気根が、どんどん伸びて、隣の梅の木や、モッコク、キンモクセイなどに、次から次へと、とぐろを巻いて、伸びてゆく。実に生命力がある。

 定家葛については、6年前にも同じような記事を書いている。写真も記事も、同じような事を書いている。

<撮影日>2012年5月23日

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2012年5月19日 (土)

朝の薔薇

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  からっとした5月の朝、庭のバラが、開いた。

  ヨーグルト好きの家族や朝の薔薇   向井富美子

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 左は何年か前、西武ドームの国際バラとガーデニングショーで買ったもの、右は、近くにお住まいのAさんから、頂いたもの。それぞれの薔薇に、思い出があり、わが庭にもなじんだものだ。

 前後するが、冒頭の紅い薔薇は、永年わが垣根を飾っていたのが、ことしはただ一枝が残るだけとなり、それが、咲き残っているもの。

  風きれい赤き薔薇にふるるとき   稲畑汀子

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   窓際の薔薇は、いま咲き始めたばかりで、まだ、蕾のものが多い。ささやかな薔薇園だけれど、一輪一輪に物語があるようで、ここしばらくは庭に降り立つのが楽しみだ。

<撮影日>2012年5月19日

  

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2012年5月16日 (水)

メタボリックシンドローム

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 市の「特定保健指導」のすすめがあって、受けてみた。国保の健康診断結果で、いわゆるメタボリックシンドロームのリスクがあるケースに、案内を出していて、その対象になっていた。

普段、食事や運動をそれなりに心がけているつもりだが、都合の悪いことには蓋をして、我流になっているかもしれないので、この機会を使ってみることにした。

 結論から書いてしまうと、わが問題点は「腹の周り」が85cmを越えていることに尽きる。結果内臓脂肪が高く、コレステロール、血糖、血圧が、境界の高めに張り付いている。

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 「特定保健指導」は、指導員の女性が、あらかじめわが最近3年くらいの検診の結果や、あらかじめ郵送で返信したチェックシートをもとに、これから6ケ月間に取り組む中味を、話し合いながら、一緒に考えてくれるという仕組みだった。

 <設定した目標>

   ①腹囲を3cm減らす。そのためには体重を3kg減らす。

   ②毎日100kcalを食事で、30kcalを運動で減らす←現在のレベルにプラスして

     100kcalの食事⇒3食のうち1回、ご飯を2/5少なくする

     30calの運動⇒10分の歩行、5分の水泳(ゆっくりクロールで)

   ③姿勢を良くする(腰をきちんと伸ばして椅子に座る)、

   ④歩くときは、腕を背中の後ろまで振る感じで~~

イラストは、そのとき渡された「メタボ予防・解消のためのライフスタイル改善手帳」で、たとえば、100kcalの運動(ex速歩なら24分、畑耕作なら21分)、100kcalの食事(exごはん普通盛の2/5杯、きつねうどん1/4杯)が、どの程度に当たるのか?などが、わかりやすく図解されていて、これなら、やってみようかという気になるものだった。

今後、1ヶ月くらいすると、教えてくれた指導員さんが「やってますか?」などの、followの電話をくれるらしい。役所の取り組みも、ハードからソフトになっているのだな?と、それなりに納得して、自分のためなのだから、やってみることにした。

 そのうち、うまくいったら、経過など、書いてみます。

 毎日、継続するのは、そう簡単ではないように思えるが~~~

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2012年5月15日 (火)

「新・平家物語(十一)」、一の谷、平家の敗走、源氏の内情(吉川英治)

Sinnheike11  「新・平家物語(十一)」は、一の谷の戦いで、鵯越の義経をクライマックスにして、平家は完敗、無残なまでの敗走を余儀なくされる。一方、大捷を得たものの、源氏の中では、都の義経と鎌倉の頼朝の超えることのできない溝が生まれていく。

 敗走の平家の公達の運命は、一の谷で討ち死にした忠度・敦盛、生け捕られた重衝、途中で逃げた池頼盛、那智の海に入水した惟盛など、様々な運命をたどり、憐れを誘う。

 ~~裏表紙のダイジェスト~~

『源氏の内輪もめが幸いして、都落ちした平家は急速に勢力を挽回していた。西海は一門の軍事力の温床、瀬戸内に平家の兵船が波を蹴立てて往きかい、着々と反攻の秋を窺っていた。わけて一の谷は天嶮の要害、平家自慢の陣地だった。加えて兵力では、平家は源氏の何倍も優位にある。しかし、地勢と時と心理とは、まったく平家に不利だった。義経軍の坂上からの不意打ちに算を乱して敗走する』

  ~~~主な事件と登場人物~~

<ひよどり越えの巻>

  • 敦盛恋人に逢うため陣抜けし都に出て、その後、屋島へ戻る
  • 父経盛は、既に生田の戦場へ出陣したが、長兄の皇后宮亮経正は、敦盛を待っていた。二位の尼とともに生田へあとから出陣
  • 金売り吉次(藤原)と朱鼻(平家)の戦争商人の取引
  • 輪田岬沖で清盛の法要(2/4)
  • 平家輪田上陸15,000騎。源氏軍は3,000との情報。一の谷の頭領は薩摩守忠度
  • 主上は二位の尼・建礼門院ととも上陸せず、船上に残る

  • 平家陣へ和議の院宣:2/8までの休戦の呼びかけ、平家は休息、実は後白河法皇のだまし討ちであった⇒後白河は三種の神器を取り返したかった⇒義経の使命となる
  • 後白河法皇は、源氏に対し2/7のあけ方に福原へ攻め入れとの秘策を与える⇒平家軍の総大将知盛も副将の重衝も、2/7の卯の刻まで、休戦と思っていた
  • 平家の雑兵駄五六、陣抜けし義経軍に捕まって、平家の陣容についての情報を源氏に伝える
  • 平通盛、木村源吾と組み打ちのすえ、討たれる
  • 源氏軍は東国の武者であり、戦での巧妙手柄にひたぶるであった。生田・一の谷・ひよどり越では、源氏の犠牲も大きかった

  • 平知盛、息子の知章に助けられ一命をとりとめたが、知章は討死
  • 一の谷の戦いの様相:矢戦にはじまり、工兵の破壊作業に次いで騎兵隊が突入⇒絶壁の上から岩石が落とされ、鹿や馬が落ち、次いで無謀にも70騎ばかりの東国勢がなだれ降りた⇒戦いは午前6時から午前10時までのわずか4j時間のこと
  • 薩摩守忠度、須磨の浦で岡部六弥太と一騎打ち、六弥太の郎党が忠度の右腕を切り落とす。忠度は西へ向かって念仏”ゆき暮れて木の下かげを宿とせば花よやよひのあるじならまし”
  • 敦盛、味方の船をめざして遠浅の海へ~熊谷次郎直実が呼び返す~引き返した敦盛(17)の首級を挙げる~”助けまいらせよう””わが名は九郎どのに問え、疾く斬れ”

  • 義経、3種の神器は奪い返せず~平家の主上を乗せた御座船とともに船影となって沖の遠くに逃げる
  • 平家の武将の死~通盛、景盛、忠度、敦盛、清房・清貞、小松殿の弟師盛、知盛の子知章、皇宮亮経正、、その弟経俊
  • 重衝生け捕られる
  • 梶原景時、鎌倉の軍奉行として勢いを持つ~義経と不仲~3種の神器が奪い返せなかったことを批難される
  • 義経側近は平家方の大将首を挙げていない←義経と影と形のように離れたことは寸時もなかったから

  • 熊谷直実が、義経へ公達の首と横笛を差し出す⇒義経「首帳にはただ公達首一ツと記しておけ」⇒生け捕られた重衝が敦盛の首を見定める⇒直実、横笛を親の参議経盛に返す
  • 都での首渡し:10人(越前三位通盛、薩摩守忠度、能登守教経、越中前司、皇宮亮経正、小松師盛、無官太夫敦盛、若狭守経俊、知盛の子知章、教盛の子業盛)の首のうち、教盛の首間違いがあり、9人に減る⇒都の人々には木曽軍の首とは違った平家への同情があった
  • 重衝市中引き回し⇒奈良大仏焼き打ちへの僧侶の恨み⇒重衝は後に奈良の衆徒の手で斬られることになる
  • 重衝,屋島の母である二位の尼や、平大納言時忠へ、3種の神器を返すよう文を送る⇒宗盛から「屋島返書」⇒院の非行を責めた詰問となる

  • 義経と土肥実平が平家一門の人間性を語る⇒頼朝・義経が平家に一命を助けられた過去⇔人の世の輪廻
  • 頼朝と院との間で上洛をめぐる駆け引き始まる

<千手の巻>Hatimannguhonnmiya

  • 頼朝上洛せず。重衝を鎌倉へ移送するよう院へ求める
  • 重衝鎌倉護送に際しての義経の温情⇒法然上人に逢いたいとの希望をかなえる⇒法然は鎌倉送りの前日に重衝とあい”三帰戒の授”を行う⇒梶原景時が護送使
  • 頼朝、重衝と会見、入道清盛による昔の助命を謝す⇒時政の進言により、白拍子”千手”を重衝に与える⇒”利用するだけ利用し、無用になれば殺す”

  • 頼朝による武家政治の始まり⇒北条時政の存在をバックにした政子(30)の影響力大
  • 頼朝の義経への猜疑心高まる←梶原景時のざん言
  • 平家追討に向けた源氏船団の建造⇒梶原景時と吉次の駆け引き、頼朝と奥州藤原の神経戦
  • 頼朝、義仲の子である志水冠者義高を処分・惨殺

  • 小松三位惟盛は、高野山に逃げて出家、のち、那智の海に入水
  • 頼盛は東国落ち。家来宗清(頼朝の13才の時の世話人)は同道せず屋島へ。頼盛は後に都へ帰り“返り帰りの亜相”と云われる

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 以上、やや冗長になったが、読書ノートにメモしていたものを、ほぼそのまま物語の順序に従って書き写した。

  当初は別世界の人であった登場人物が、読み進むうち、なじみが生まれ、読者でありながら、あたかも旧来の知り合いであるかのような気持ちになっている。源氏・平家それぞれの系図に連なる人々、天皇家、さらには藤原家も含めて新・平家の登場人物は、実に多彩だ。法皇・上皇・天皇、武将、公家、僧侶、そしてそれらの人々をめぐる女性たちが、まるで、今も生きているように蘇っている。

*写真は鶴岡八幡宮2006年12月撮影。

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2012年5月14日 (月)

サントリー登美の丘ワイナリー (山梨県甲斐市)

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 湯村温泉、常盤ホテルの庭園。昭和天皇はじめ今の両陛下、皇太子ご夫妻などもお泊りになったというホテル。池のある広い庭一面が、新緑に彩られていた。チェックアウト前に、撮ったもの。クリックするとワイドになります。

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 湯村からクルマで25分くらいの、甲斐市登実の丘にある、ワイナリーを訪ねた。丹精込めて造られ、ワインが眠っている樽熟庫、瓶熟庫をガイド付きで見学した。ビデオ映像などをまじえた要領の良い説明で、ワインの認識を新たにした。

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 我々が購入するワインは、このようなワイン庫で、熟成し、味、香り、酸味など、いちばん美味しい状態になっった時に、出荷されるという。したがって、購入したら、できるだけ早く味わった方がいいとのこと。家庭で長く置いておくことは、ワインに適した環境でないままにしておくことになるわけで、次第に品質が劣化するという。

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付属の「ワインテラス」というレストランで昼食にした。ワンプレートの連休特別メニューがまずまずだった。ワインに合った料理ということだったが、クルマの運転者は施設入場の際、受付で「飲みません」のプレートを首に下げさせられるので、試すことはできない。

 窓の外の甲府盆地は雨に煙っていた。が、かえって、その向こうの甲斐の山々、遠望できるはずの富士山を想像するのも、また楽しだった。案内によると、晴れた日は、次のような葡萄畑の景色になるという。

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 この「登美の丘」は、ぶどう栽培に適した気候に立地しているという。その3つの要素の説明があった。

  • 雨が少ない……ここは南アルプス、八ケ岳、富士山、奥秩父山系に阻まれて、雨雲が来ることが少なく、また、春と秋の低気圧も、山々に囲まれて入って来ない(この日は不運にも土砂降りに近い雨だったが^^^)
  • 日照時間が長い……近くの北斗市明野町は日照時間日本一のところで、南斜面がぶどう栽培に栽培に最適
  • 昼夜の寒暖差がある……標高が高いため昼夜の気温差が10℃以上になることが多く、ぶどうは色が濃くなり糖度が高くなる

  ワインショップで、このワイナリーでしか購入できない?商品などを、おみやげにして、一路東京に向かった。テスティングもできるが、ドライバーには厳禁だ。

<撮影日>2012年5月2日

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2012年5月13日 (日)

昭和記念公園、ポピー、あやめ、ハス

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 晴れあがった5月の日曜日、連休翌週とあって、人出もそれほどでない、静かな公園。みんなの原っぱは、濃淡・明暗織り重なった、緑が広がっていました。

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 みんなの原っぱのポピーはほぼ終わっていて、もうひとつのこもれびの丘のポピー園が、咲き始めたところでした。今日は赤がほとんどで、それにピンクが、すこし混じっている感じでした。

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 野菜畑のあるこもれびの里の入り口付近に咲いていたあやめ。それほど目立たないのですが、見事な色合いでした。

 下左が同じこもれびの里。右は日本庭園の池のあやめ。

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 きょう最後は、これも日本庭園の池のハス。

 全部で8~10弁ほど開いていました。木橋の上からカメラを向けていた人が数人いました。その間を縫っての1枚です。

 

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きょう、公園に居たのは、朝10時ごろから、昼前まで。帰宅して今午後3時30分。一番最新の昭和記念公園の様子でした。

<撮影日>2012年5月13日

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2012年5月12日 (土)

武田神社 、甲斐善光寺 (甲府市)

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 甲府でまず訪ねるのは、武田3代の館跡にある武田神社。信虎・信玄・勝頼が63年の間、甲斐武田氏の本拠、甲斐の政庁として、天下にその名を轟かせた場所だ。Takedajinnja6

 宝物館には、武田氏ゆかりの軍扇、太刀、鎧、合戦図、二十四将図(チケットの絵)などが飾られ、「孫子の旗」が特別展示されていた。「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵略(しんりゃく:おかしかすめる)すること火の如く、動かざること山の如し)~~~」

 一見,古めかしいぼろ布だが、この旗指物が、川中島の戦いはじめ数々の合戦で、戦場にはためいたことを想像する事が出来るのは、やはり、実物・本物の力だった。

信玄公は「人は城、人は石垣 人は堀 情は味方 仇は敵なり」を信条に、人を、城や石垣、堀にもまして信頼し、「和」を尊び、生涯城を持つことはなかった。

 武田信玄について、これまで、あまり勉強していないけれど、宝物殿で、信玄の眼光鋭い肖像画や、数々の書き物の実物を見ているうち、やはり、大変な怪物だったんだということを、実感した。

 信玄は1573年53歳、三河侵攻中に、信州伊那駒場で病没。跡を継いだ勝頼は9年後の1582年、小山田信茂謀反、織田方の挟撃を受け、天目山で自刃。37歳。

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Kaizennkouji 甲斐善光寺に参拝した。川中島の合戦で兵火が信濃善光寺に及ぶのをおれ、信玄が仏像や経典を、この地に移したと伝えられる。

 お堂の造りは信濃善光寺(右下)そっくり、中へ入ると、戒壇めぐりもあるし、びんずるさんも、信濃そのままに、おられた。Zennkoji2_2

 ただ、境内の賑わい、伽藍の重厚感などは、やや失礼な言い回しながら、イミテーションの感だった。

<撮影>2012年5月2日、信濃善光寺は、2009年5月

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2012年5月 9日 (水)

湖北の十一面観音と井上靖(多磨2012-5号)

 俳句雑誌「多磨」2,012-5号に、「湖北の十一面観音」という記事を載せてもらったので、紹介させていただきます。2007年4月に記事にしているものなどを、思い出して、あらためて書いてみました。


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作家井上靖(190791)は、各地の十一面観音像をたびたび訪ね、紀行集「美しきものとの出会い」の中でその魅力を記している。同書によれば、全国で重要文化財の指定を受けている十一面は二百体ほど、そのうちの四十一体を滋賀県が占め、それに次いで奈良県の三十二、京都の二十、兵庫の十三、長野・愛媛の八の順だという。

 琵琶湖の北側に面した滋賀県湖北地方、木之本町の與志漏神社の境内にある仏様の収蔵庫「己高閣」「世代閣」を訪ねたのは、桜の蕾が膨らみ始めた四月の初めだった。

  二つの収蔵庫には、昔己高山の山頂にあった鶏足寺という大きな寺や、近くの戸岩寺と云った、今は廃寺となった寺々の塔頭におられた仏像が数多く収められていて、そのひとつに「鶏足寺十一面観音菩薩像があった。一・七二米、素朴な顔の彫りに一文字の唇、肩が張りがっちりした檜の一木造りで彩色の剥落平安前期の作と云う歴史を感じた。

  案内して貰ったのは、毎朝八時~夕方五時まで当番でこのお堂にスタンバイされている年配の男性だった。若い人たちから「普段はクローズしておけばいいではないか」との声もあるけれど、通気性や見学者のためにも、今の体制を維持しているとの話。のどかな田園の集落で、土地の人たちが力をあわせて仏様を守っている、根強い庶民信仰の姿に触れた思いがした。

 この地方は、地理的に北陸、東海、近畿の接点にあたり、遠く平安期に、若狭(北陸)ルートからの大陸文化と都(近畿)の影響を受けて、仏教が根付き、ひとつの仏教文化圏が形成されたといわれ、それが今に続いているのだろう。

Hositomaturi1 十一面観音に魅せられた井上靖は「星と祭」(上下巻・角川文庫所収)という滋賀の観音の里を舞台にした小説をも書いている。琵琶湖でボートが遭難し、遺体も揚がらない若い男女の鎮魂のため、二人の父親が湖畔の十一面観音を巡る。最初に訪れるのが、同じ湖北高月町の国宝「渡岸寺十一面観音菩薩像」だった。

  私は渡岸寺に、参道で菊花展が開かれていた秋の昼下りに訪ねている。その頃はささやかなお堂に、観音様はおひとりで安置されていた。お堂には、偶々我々夫婦と観音様だけ、湖から伝わってくるひんやりした秋の冷気の中、頭上に十一面の仏面を戴いた像の高さ一・九五米の一木彫成、腰をわずかにひねって歩み出そうとするかのような豊麗で官能的な姿態の観音菩薩が、手の届くところにおられた。そのまま包み込まれる様な贅沢な思いに耽ることかなりの時間、一時が経ち、関西訛りの姦しい一団に静寂を破られるまで、その場立ち尽くしていたのを覚えている。

 井上靖は「しばらく来ないと無性に観音さんに会いたくなる」と語っていたそうだ。五月、あのあたりでは田植が始まり、早苗田が日を追って青田へと移ってゆく。作家の足跡に思いを馳せながら、また出かけたいと思い始めている。

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  「多磨」

〒207-0014 東大和市南街6-65-1

多磨俳句会:発行人 関成美さん   

編集人 川本薫さん

 Tel 042-562-0478

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2012年5月 8日 (火)

新緑の秩父ー4完、札所27番大淵寺、28番橋立寺

Titibu28odoTitibu28Titibu28kesiki  秩父2日目、30番法雲寺、29番長泉寺と逆回りし、次いで28番橋立寺、27番大渕寺と参拝した。カーナビが古いのか、それとも、もともと札所をクルマで廻るのが邪道なのか、意外に各札所に到達するのに、四苦八苦した。

  今回の28番は、カーナビのまま進むうち、道が急に狭くなってあわや脱輪しそうになり、あわてて別ルートからやり直して、どうにか着いた。

 27番は、迷った挙句、ちょっと離れたドラッグストアで車を止め、徒歩10分ほどでたどり着いたら、別ルートからの道で、門前に立派な駐車場があって、ガックリ。

 本題。29番橋立寺では、切り立った白く高い岸壁に抱かれるようにして、朱色の観音堂があった。ご本尊は諸悪を食い尽すとされる馬頭観音だ。岸壁の高さは120mという。

 境内に「橋立鍾乳洞」の入口がある。今回はパスした。

 納経帳の日付である昭和62年6月28日の日記が残っていて、ここの茶店で昼食にしたとある。25年の歳月の間に、その記憶は全く跡形なく消えていた。

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  Titibu27kannonn27番大淵寺。境内からはるか頭上に大観音像を見上げる。山門越しにも、撮ってみた。

 お堂が丘陵の上にあって月影清らかなところから、月影堂とも呼ばれるらしい。

 寺伝では宝明という行脚僧が当地に来て難病となり、七年間も臥せっていたところに弘法大師が来合わせ、聖観音像を刻んで授けたところ病気が快癒したので、尊像を安置するため堂宇を建立したのだという。

 訪ねた時間が昼前だった。うすぐもりの空が、かえって新緑の美しさを盛りたてているように感じた。しかし、ここでも、25年前の参拝の記憶は、まったく甦ってっこなかった。

                                  ☀☁☂☃  ☀☁☂☃ 

Titibumizuumi_2  道の駅「大滝」で、昼食を取った後、秩父湖に立ち寄った。季節はまだ晩春といったところで、八重桜が、満開だった。このあと、雁坂峠経由、甲府へ向かった。

 奥秩父~甲府のドライブは、7年前にも走っていて、当時、スライドショーをのHPに載せている。

 ⇒こちら

<撮影日>2012年5月1日

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