義仲寺(大津市)
木曾義仲と、芭蕉の墓所がある義仲寺は、「粟津の晴嵐」の膳所の旧東海道の街中にありました。まず義仲は1180年信濃に平氏討伐の挙兵をし、北陸路で平氏の大軍を討ち破り、1183年京都に入ったが、翌年鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経に破れ、ここで討死、側室の巴御前がこの墓所のほとりで供養したと伝えられます。
時代は移り1690年、奥の細道の旅のあと、近江を愛した芭蕉は、この地の無名庵に滞在、その4年後大坂の旅窓で逝去した際、「骸は木曾塚に送るべし」との遺言を残し、弟子達によって、当寺に葬られました。
こじんまりした境内に入るとすぐ義仲の墓、その右隣に、ひとまわり小さい芭蕉の墓がありました。芭蕉は義仲や義経といった志半ばで散った悲運の武将に、心を傾けたと云われ、こうして、義仲の隣で眠っていることに、永遠のやすらぎを感じているように思われました。
義仲寺に翁眠るや春なかば
翁堂(おきなどう)の中を見ると正面に芭蕉翁坐像、左右に丈艸(じょうそう)、去来の木像があり、ここでは芭蕉が仏様になっていました。さて、何をお祈りしたのか、賽銭箱があったのかなかったのか、記憶がはっきりしません。余談ですが、深川を散歩した途上で、芭蕉稲荷神社というのがあったことを、思い出しておりました。
左は拝観券の「芭蕉翁絵詞伝」(寛政4年・1792年)木曾塚(義仲寺)の図で、現在の境内とほぼ同じです。この寺は戦国の頃や、その後の火災、洪水、さらには大東亜戦争などで、荒廃や存亡の危機に遭っていますが、そのたびに、篤志家の手によって再興・復旧され現在のような整備された姿が守られているとのこと。あらためて、歴史や文化遺産が多くの人によって支えられていることに感動しました。
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芭蕉が義仲を詠んだ句があります。
義仲の寝覚めの山か月悲し
元禄2年8月14日。「奥の細道の」旅中、敦賀での名月の晩。燧が城<ひうちがじょう> にて。燧が山は、福井県今庄町にある源平争乱期木曽義仲の城があったといわれている。燧が城を見ていると、あの木曽義仲もこの景色を見ていたかと思うと感慨一入であるというのである。
芭蕉の木曽義仲への想い入れが表現されている句です。
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