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2009年1月12日 (月)

「半日」(森鷗外)

Hanniti  森鷗外に「半日」という短編があります。明治42年の作品で、大学教授とその妻の日常を書いたもので、ある日の朝から昼ごろまでの家庭が舞台です。

 この短編に出てくる「奥さん」は、同居している姑をお母さんとは呼ばずに「あの人」としか言わない、姑と同じ食事の席につかない、姑が管理している家計を取り仕切りたいが、自分には節約とか金銭管理はほとんどできない、それでいて、本人に特別の趣味があるわけでなく、気晴らしにお稽古に行きたいと云っても、狙いは稽古事そのものではなく、化粧をし装って、車(人力車)をかって、往き来するその時間だけが、楽しみという、いささか、困った存在。実家は、紀尾井町の非職勅任判事の父がいるというから、今で云えば最高裁に関係のある家柄です。「あなたが亡くなりでもしたら、わたしと玉ちゃん(ふたりの娘)とはどうなるんです(遺言はしっかり書いてあるんでしょうね)?」などとも言います。

 私は、ラジオの人生相談、たとえばTBSの「大沢悠里ののんびりワイド」で毎日朝9:20からの相談をよく聴きますが、ここでも、よく似た話が出てきますね。鷗外のこのような「奥さん」が特別めずらしい存在だとは、思われません。今日でも、あちこちにある話では??

Ougai_2  解説(ちくま文庫、鷗外全集Ⅰ)には~~(鷗外が)再婚して7年の後、明治42年3月に書かれた「半日」は、よく知られているように夫人の忌憚にふれ、全集への採録を拒まれて、永らく日の目を見なかった。もしも夫人がここに描かれたような異常性格者でないとすれば、無理もない、と思われる苛酷な内容で、問題はこの小説を発表した鷗外の屈折の方にあるのではないだろうか。多分その裏には、表面に書かれた以上の破局的状態が伏在しており、彼は何とかしてこれを打開しようとしたのであろう~~

 小説家とその妻の物語としては、漱石の「道草」を思い出します。これについて、江藤淳が「決定版 夏目漱石」(新潮文庫)の中で、次のような事を書いています。少し長くなりますが、引用します。

~~鷗外の「半日」と漱石の「道草」は、いずれも家庭生活を扱った私小説的な作品ですが、ここには二人の作家の具体的な他人に対する態度がよくあらわれています。(中略)鴎外夫人志げと漱石夫人鏡子が悪妻だったかどうか、見方によっていろいろいえるでしょうが、この二人の夫人がヒステリー症気味だったことは客観的に証明できるでしょう。そういう細君に対する漱石と鴎外の態度のちがいに、二人の人間観というか、人間に対する要求のちがいがはっきり見てとれる。それはおそらく二人の作家の心の奥底にあるなにものかを、うかがわせてもいるのです。

 「半日」の主人公はもちろん鷗外の分身ですが、細君に対して非常に細心に、低姿勢に対しています。細君の機嫌jをとるためには宮中の儀式を欠席してまでデリケートな神経をはたらかせています。優しいといえば実に優しいのだけれども、それでいてどこかヒヤリとした冷たさが底にかくされている。相手の心の底まで計算して先回りしてヒステリーを抑えていこうとする。ものごとを爆発させないでうまくまとめようとするのです。しかしそSoseki_2 うしている主人公は実に冷静そのもので、冷たい打算家のように見えます。

この冷たさの裏側にあるのは、どうしても人間同士の魂と魂が裸のままに触れ合うことはない、そういうことは人間同士にはあり得ない、というあきらめでしょう。だからこそものごとはまるくおさめていかなければならない。彼にとって重要なことは、家庭という「形式」を維持すること、そしてこの「形式」に姑と嫁のあいだの秩序をあたえることです。こういう公的な役割を果すことのほうが、主人公には魂と魂が触れ合えないことより大事なのです。彼があきらめられるのは、彼の寂しさがあきらめられる程度のものだからともいえる。

 しかし漱石の「道草」や「行人」の主人公は、逆に爆発させまいと思っていても自分のほう から爆発させてしまう。しかも非常に陽性に爆発させてしまう。陽性といってもおもしろおかしいわけではない。漱石は主人公をいつも寂しい人間に描いています。その寂しい人間が悲痛な叫びをあげて怒りを爆発させる。「行人」にはそういう主人公が細君に暴力をふるい、そうすることによって一層みじめに、孤独になって行く。漱石も鷗外と同じように、深いさみしさをかかえて一生を送った人でしたが、彼はあきらめて自分の寂しさの中に閉じこもってしまうことがどうしてもできなかった。どうして自分はこんなに孤独で、寂しくなくてはならないのか。自分のすぐわきには細君というものがいるのに、どうしてl心が触れ合わないのか。何故こんなに不条理なことになっているのか、といって漱石は怒っている。彼にはもうEto_2 「形式」というようなも逃げ場がないのです。こういう怒れる漱石の姿は人間的な、あまりに人間的なものです。それほど彼が行き当った孤独な「個人」というものは、逃げ場のないところに追いつめられていた。そういう人間になってしまうのが近代人の宿命だということに、私たちはこの頃ようやく気がつきはじめたようです~~

 鷗外と漱石、明治に生きた二人の文豪との時間は、尽きることのない知的な空間と時間を与えてくれます。

 ** 鷗外の「雁」について、2007年3月に記事がありますので、ご覧ください。

 

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