姥捨、田毎の月: 更科紀行③
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- 芭蕉が「更科紀行」の旅をした貞享5年(1688年、45歳)の春から夏は、「笈の小文」の最後の訪門地須磨・明石のあと、京都、大津、岐阜、名古屋各地で、多くの門人たちの歓待を受けたり、新しい門人の入門があったりと、すっかり有名人となり、世間からもてはやされた時期であったといわれる。
- しかし、こうした日々は、脱社会、脱体制を志した芭蕉にとっては、いったん飛び出した世俗的秩序にまた組み込まれることになり本意ではなかったはず。これではいけないと、門人のいないわびしい山中の旅をひそかに考え、岐阜から木曾路を通り、信州更科に行って、名月をみようと反省・構想されたのが、「更科紀行」の旅であった(井本農一、芭蕉入門)。
- われわれのツアーも、その更科姥捨がハイライトだ。まずは、朝、上山田温泉の旅館を早々と立って、JR姥捨駅に上った。入場記録に08時13分と云うのがその証明。眼下に「田毎の月」を映す棚田、姥捨伝説の冠着山、はるか前方の川中島、そして善光寺平の中央に長野市街などが展望された。写真をクリックして拡大してみてください。
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- この日のガイドは前夜泊まった旅館の若社長。我々のために芭蕉の更科での足跡にはじまり、地元の姥捨伝説、川中島合戦絵巻に至るまで、少し降りだした雨をものともせず熱弁をふるってくれた。この日は、たまたま「棚田のオーナー」による田植エベントで、この日のために都会から田植にきたオーナーたちも、われわれのガイドを遠巻きにして、聴いていた。写真は左がその様子、右が、観月の名勝、長楽寺の「芭蕉翁面影塚」と観月台をバックにした、わが一行のすました様子で、最前列サングラスが筆者(v^ー゚)。
俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友 芭蕉
- 句意:姥捨山に月を見ていると、捨てられてひとりで泣いている老婆の面影がうかんでくる。その面影を今宵の友として月をながめよう。
- 句評:この句は直接謡曲(世阿弥の『姥捨』)を踏まえたもので、曲中の老女が白衣の袂を翻して、月下に舞う幻想的イメージを俤にしているところがすばらしい。この句は月天心に至る夜更けの姥捨山の旅情を詠んだ句と芭蕉自らが自注している。宵の間は名所の月見に浮かれた観光客でひとしきりにぎわった姥捨山も、月天心に至る深夜には一人として残るものもなく、芭蕉ひとりが、山中に捨てられたという姥の俤をしのびながら、そこに立ち尽くしていたというのである。たしかに、芭蕉のいう通り、姥捨山の本意は、深夜の月の光をただひとりで詠めるところにある(堀信雄、『松尾芭蕉集 全発句』)。
元日は田毎の日こそこひしけれ 芭蕉
- この旅の翌年、芭蕉は知人あての書簡で「去秋は越人といふしれものと木曾路を伴ひ、桟のあやうきいのち、姥捨のなぐさみがたき折、きぬた・引き板の音、しし(鹿)を追ふ声、あはれも見つくして、御事のみ思ひ出候。としは明ても猶旅の心ちやまず」とし、この句を提出している。
- 句意:前年の秋、中秋の名月を信州更科に賞し、その折「田毎の月」を眺めたが、新しい年の元日を迎え、「田毎の月」ならぬ、初日の映る「田毎の日」はどんなであろうかと、更科が恋い慕われることだ。「更科紀行」の旅の翌年の歳旦吟で、月の名所である「田毎の月」を「田毎の日」と換骨奪胎したところに俳諧性がある。
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今回は幹事役で、わずかな時間を縫って、コンパクトカメラでスナップを撮るのが精いっぱいで、良い写真を撮れなかった。そこで、棚田と姥捨の絶景を見ていただくために、千曲市の観光パンフから、拝借した右の写真を掲載させていただく。
- 撮影日:2009年5月30日。
- 関連記事:同じ仲間で、昨年芭蕉の「鹿島詣」を訪ねている。下記をどうぞ。
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