小諸「懐古園」、島崎藤村:更科紀行④
- エントランスにあたる三の門は1615年に創建、その後大洪水での1765年再建のものがいまに残っているとのことで、よく見ると両の塀には、矢峡間や鉄砲峡間がある、戦闘的な建物だ。
- 浅間山のふもとに位置する小諸、この日は、さわやかな5月の高原の風が古城の新緑を柔らかに揺らしていた。下左黒門橋、下右天守台石積と馬場。
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- 小諸の一方の主役は島崎藤村で、明治32年から7年間、当時の小諸義塾に赴任し「千曲川のスケッチ」が書かれ、「破戒」が起稿されたところだ。園内に「島崎藤村記念館」があり、藤村の詩碑や歌碑がならぶ。
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- 藤村の「千曲川旅情の歌」の詩碑。『小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草も籍くによしなし しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る………』
- もう一つは「惜別の歌」の歌碑。『遠き別れに耐えかねて この高楼に登るかな 悲しむなかれわが友よ 旅の心をととのえよ…………』。一緒に旅をしたわが古典講座のY先生が、この碑の前で小林旭顔負けの独唱をされ、緑の薫風の中で、それに一同が自然と唱和する、思い出深い懐古園見学となった。
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- 「千曲川旅情の歌」の詩碑から公園の突端の方へ歩くと、千曲川が一望できる展望台がある。ちょうどわれわれ一行がこの展望台にあがったとき、ほかのグループと入れ替わったので、狭いスペースだったが、パッと集まってカメラに収まった。みんな幸せそうな顔である。後列右手を挙げているのが私。最前列真中が「惜別の歌」を歌われたY先生。
- 撮影日:2009年5月30日
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コメント
皆さんで歌われた「惜別の歌」情景が浮かんできます。
「惜別の歌」は好きでよく歌いますが、何時も思い出すのは、
入隊して日の浅かった頃、北富士演習場で4千メートルから飛び出し
そのまま傘が開かず「十万億土」に旅だった友に
死装束となった制服を着替えさせながら・・・・
何故かこの歌が出てきたのを
「遠き別れに 耐えかねて・・・」
「悲しむなかれ我が友よ 旅の衣を整えよ」
投稿: shunn | 2009年6月16日 (火) 07時02分
作曲者の藤江英輔氏は、この曲の作曲したころを回想して
長文を書いています。、その一節を、抜き書きしてみます。
~~哀しむなかれ、我が友よ、旅の衣をととのえよ……。
このとき、ぼくが思い浮かべた〝旅の衣″は戎衣(じゅうい)で
あった。軍服。「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(いすい)寒し、
壮士一たび去って復(ま)た還(かえ)らず」という漢詩の一句が
脳裏をよぎった。
「旅の衣は鈴かけの、露けき袖やしほるらん」
これは、弁慶が傷心の義経を守って、陸奥に落ちていく情景を
った長唄『勧進帳』の最初の一句である。それがオーバーラップした。
義経も弁慶も、富樫の情で、死をまぬがれるひとときを得た。だが……。
そんなことを考えているうちに、あるメロディが自然に浮かび上が
ってきた。ぼくの胸の中で死と隣り合わせになっていた若い、未熟な、
無秩序な願望から、突然湧き出した不思議なメロディであった。
ぼくがこの『高楼』(藤村の若菜集所載)に曲をつけたのは、言葉に出せ
ぬ無言の別れを無言のままに済ませることに、どうにも我慢できない焦燥
を感じていたからだった。
このつたない曲は、むろん表立って発表した訳ではない。口から口
へと伝わっていっただけである。
中本(氏の友人)は音痴のくせに真っ先に覚えた。調子のはずれた変な歌唱では
あったが、一点に眼をこらす例の表情で、おもしろくもおかしくもな
いという顔でいつも歌っていた。そして、この歌はいつか陸軍造兵廠
第三工場から出陣する学徒兵を送る別れの歌になった~~~~。
投稿: kij | 2009年6月16日 (火) 07時05分
歌の解説を読ませていただいてから、歌を聴くと心にしっとりと入ってきます。
そして、shunnさんの遠き思い出にも涙しました。
危険と隣り合わせの毎日は想像も出来ませんが・・
投稿: hina | 2009年6月16日 (火) 07時06分