2008年9月21日 (日)

「切羽へ」(井上荒野、新潮社)

Kirihahe  直木賞受賞作(平成20年度上半期)だと知って読んでみた。かねて、井上荒野(あれの)という、ちょっと変わった作者の名前は、聞いていたが、読むのは初めて。

 何年か前、八丈島へ行ったことがある。YS11に乗って、羽田から1時間ほど、東京から遠いようでもあり、近いようでもあった。この小説は、もう少し東京に近い伊豆大島のどこかあたりが舞台と想像した。その島の3月から、翌年4月までの物語だ。

 寅さん映画で、栗原小巻がマドンナだった「柴又より愛をこめて(1960年・弟36作)」の舞台は、たしか式根島だったので、あのあたりかなと思う。そういえば、あの時の栗原小巻も、島の学校の先生だった。

 <BOOKデータベース>………静かな島で、夫と穏やかで幸福な日々を送るセイの前に、ある日、一人の男が現れる。夫を深く愛していながら、どうしようもなく惹かれてゆくセイ。やがて二人は、これ以上は進めない場所へと向かってゆく。「切羽」とはそれ以上先へは進めない場所。宿命の出会いに揺れる女と男を、緻密な筆に描ききった哀感あふれる恋愛小説……。

  作者は1961年生まれ。この小説の主人公はもう一世代若いくらいで、私のこどもの世代にあたる。この世代の夫婦(漁師の息子である画家と、医者の娘である小学校の養護教諭)の間柄は、このような淡々としたものか? 互いに、女と男、個人と個人という立場をわかりきっていて、尊重しあいながらも、どこかに、なにかを打ち明けないわだかまりを秘めている。一心同体でなく、異心同体。同体はしっかり。だけど、その互いの心には距離があり、わかっているが、踏み込むことをしない。

 主人公セイの心を占めるようになった「一人の男」も、セイに惹かれているのだけれど、たがいに、何を打ち明けるでもなく、半端な会話やしぐさを交わしあうだけ。こう書くと、ありふれた、すれ違い恋愛小説のようだけれど、さすが、直木賞、セイと夫、石和(一人の男)、同僚教師の月江、月江の愛人本土さんなどなど、登場人物の心もよう、生活の息吹きが、島ののどかな風景とともに、無理なく伝わってきた。

 主人公がなにくれと世話を焼いていて、かなり訳ありげな人生経験の持ち主である90歳近いKirihashohyo_2 しずかおばあさん、職場である学校で、ちょくちょく保健室に駆け込む子供たちなど、まわりの人たちも、無理なく絡んできて、小説の厚みも十分だった。

 1年後の4月、小説の最後で、セイ夫婦は、結婚以来??年ぶりかで、子宝に恵まれる。これから先、夫婦というやや乾いた大人のつながりから、生まれてくる子供を中心にした、並みの生活者としての父と母にになるのだろうと、少し冷めた気分になると同時に、それこそが、重みのある現実なんだと、思い直した。

 文芸春秋8月号に書評が出ていたので、紹介しておきたい。クリックしてみてください。

「☆☆☆☆☆」マークで表すと、「☆☆☆☆」。

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2008年9月12日 (金)

「家族の昭和」(関川夏生、新潮社)

Kazokunoshouwa  この本は家族をめぐって、戦前、戦後、そして昭和の末の3つの時期を、小説、映画、テレビ台本を素材に、その時々の事件(もちろん戦争も…)や時代相とともに描いている。我々世代のだれもが実体験してきた家族の全盛期・下降期、そしてやがて来るであろう落日期の哀感を思いながら、自分が過ごしてきた昭和という時代をふりかえる格好の読み物だった。

 素材になっているのは、向田邦子「父の詫び状」「あ・うん」、幸田文「流れる」「おとうと」、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」、戦後になって小津安二郎の「秋刀魚の味」「東京物語」、昭和末期は鎌田敏夫のテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」「男女7人夏物語」などだった。それぞれ一度は読んだり、見たりしたものであり、いずれも、文章として、また、映像として、今でも、記憶に深く残って(金妻、男女7人は淡い記憶)いて、身近な昭和史と、受け止められた。

 向田ものでは、昭和戦前、暗い時代で、父の権力が存在したが、それとても、苦労人でわがままな父親を家族全員で支えよう、父親を心おきなくいばらせようと努力する家族の物語だった。家族の心のふれあい、温かさがしっかりあった。

 幸田文は、言うまでもなく幸田露伴という厳父、娘にとっては「英雄」とも慕う父親が、娘に言葉と身体で家事を仕込み、その薫陶を受けた娘(文)が、自分の家族(『おとうと』)や、自らが一時女中奉公に出た芸者置屋(『流れる』)で、存在感を発揮する物語で、こちらも、今日平成における、個人中心・個人バラバラの家族では、とっくに形骸化した助け合いや思いやりの心が、浮き出ていた。

 それが、戦後の高度成長を経て、やがてバブルに向っている頃の「金妻」「男女7人」あたりになると、いささか怪しい家族物語となって、友情亀裂・浮気・自分探し・自己主張の人模様が展開される。テレビドラマの登場人物は、古谷一行、坂東英二、奥田瑛二、女優陣では小川智子、森山良子、篠ひろ子あたりになり、私よりひと世代若く、およそ、昭和23年頃の生まれであろう。

 この頃の私は、ご他聞にもれず会社人間で、毎晩深夜帰宅、頭の中は、ほぼ利益・効率一辺倒で、わが社宅の妻たちが見ていたであろうこれらのドラマとは、縁の薄い存在で、記憶もはなはだあやしい。人気ドラマだったとは思うが、主役ぼ影はおぼつかなく、家族離反の走りのころであっったろう。昭和の末期のその頃(60年代)は、日本にとっても家族にとっても不毛の時代ではなかったか?

 最終章に出てくる、小津安二郎の「東京物語」。これは高度成長前期の昭和28年の映画。尾道から旅立った両親(笠智衆と東山千栄子)だったが、東京の娘や息子の家の居心地が落ち着Toukyomonogatari_2 かず、旧友(東野英治郎)を訪ねるが、その旧友宅も下宿人に占められていて居場所がない、やむなく、もう一人の友人(十朱幸男)と、3人で飲み屋へ行く。そこでの共通の話題は、「それぞれの息子が、子供時代に見込んだほどにはならなかった」という失望、繰り言、現実実感だったが、これには、自分の今も含めて、ほろにがく共感を覚えるのだった。(写真は、先週放映されたNHK-ハイビジョン映像から)。

 最近年の国勢調査では「一人暮らし世帯」が、全世帯の3割を占めるという。まさに、家族の「落日期」で、否応なく、それへの心構えもしなくてはならない。

<追記>

 本書で取り上げられていた吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を、本棚の奥から取り出して再読した。それについては、稿を改めて書いてみたい。

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2008年8月19日 (火)

時が滲む朝(楊逸、文芸春秋2008年9月号)

Tokigasizumuasa はじめて日本語を母語としない外国人作家が芥川賞を受賞したと話題になった「時が滲む朝」を、文芸春秋8月号で読んだ。

 作者は1987年に来日したというから20年ほど前だが、それにしても、私の1/3にも満たない時間しかたっていないのに、これだけの日本語を操り、日中両国の情報を組み込んで、小説に仕上げる才能(努力?)に、素直に驚いた。

 8月号の選評をみると、受賞の選考委員会では意見が大きく分かれたようで、高樹のぶ子、池澤夏樹、川上弘美、黒井千次、小川洋子各氏らが肯定的なのに対し、石原慎太郎、村上龍、宮本輝氏らは、はっきりと否定的な意見を述べている。

 たしかに、読んでいて、文化大革命や天安門事件、香港返還などの中国現代史が走馬灯のように書き込まれていたり、登場する中国の青年たちやその家族の生活に根ざした息づかいが伝わってきたり、その中で、日本の昭和30年から40年代の世相を思い出させてくれたりと、大いにひきこまれる部分がある一方で、主題となっている二人の青年の革命志向とその挫折、彼らとひとりの少女をめぐる恋のあれこれとその結末などは、薄っぺらな感じがした。興味深々読み進んだ時間と、なんだか読者が軽くあしらわれているような、裏切られたような時間が交錯した。「時が滲む朝」という題名も、わかったようでわからない。

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  ……… …………

 今北京は連日オリンピックで大いに盛り上がっている。写真は2002年の夏、私が北京に行ったときのものだが、天安門広場も様変わりのにぎわいになっていることだろう。あのとき、垣間見た茫漠とした熱気、広い中国大陸から集まった人々の身なり・顔形・早口の言葉づかいなどに見られた混沌の様子を、この小説を読んで、また、実感した。

民主化を熱心に語っているかと思えば、そのことで集まった仲間を商売のタネに利用したり、友情や信義に厚いかと思えば、舌の乾かないうちに裏切っていたり、我愛中国と熱烈に叫んでいるかと思えば、日本人とは比べようもなく家族の絆を大切にしていたり、今更ながら、中国の人たちの強さ、したたかさ、しなやかさも感じた。

 作者は受賞者インタビューの中で、「日本人はみな真面目で、なんでも重く受け止めすぎますね。もっと楽観的で、無神経にならないと、生きていくのが難しいところもあるんじゃないでしょうか」と語っている。

 オリンピックが終わると、次は上海万博と、隣の大国は当分間違いなく、その影響力を増していく。そのさき、さらにどのような国になっていくのか、全くわからないが、隣の、この巨大な国の人たちと、あらためて腰を据えて対峙していかねばと、感じた次第。その意味で、作者が引き続き、日中のよき相互理解のために、続編的な作品を発表されるのを期待したい。

<追記>

 芥川賞に関しては、2007年2月に、「ひとり日和」(青山七恵)を記事にしたことがあります。「時が滲む…」とは、まったく別の世界の日本の若者の姿が、書かれていました。

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2008年8月14日 (木)

心にナイフをしのばせて(奥野修司、文藝春秋刊)

Kokoroninifesinobasete_2  少年法第60条では、「少年のとき犯した罪により刑に処せられてその執行を受け終り、又は執行の免除を受けた者は、人の資格に関する法令の適用については、将来に向かって刑の言渡しを受けなかったものとみなす」 と定められている。

 この本は30年前、高校1年生の息子を、同級生に無残に殺害された父と母、そしてその妹が、その精神的苦痛を、時の経過によっても消えることなく負い続け、苦悩する姿を、克明に描いていた。

 家族を(もちろん被害者本人もだが)襲った理不尽な事件は、残された個人それぞれに強い衝撃となっただけでなく、、3人の間でその息子(兄)に起こった忌まわしい事件をおたがいに触れないように気遣うこととなる。そしていつしか互いが本心を開かさない関係に追いやられてしまって、犯罪被害者達のその後の人生に大きな傷跡を残し続け、あるときは家庭崩壊寸前まで追い込んでしまう。読者の目には、「肉親の死とはいっても、ほんとうにこんなにも長く深刻に、悩まされ続けるのだろうか」と疑いたくなってしまうような時間が、費やされていく。

 最終章近くになって、30年前の加害者が、その後「更生」して、今ではある地方都市で、弁護士として活動しているという、衝撃的な事実が伝えられる。それは、冒頭で引用した少年法では、合法の経過なのだが、事件後、加害者の両親が支払うと約束した慰謝料支払いが、不履行のまま放置されていたり、加害者としての謝罪が皆無だったりと、いわゆる犯罪被害者の立場は、「これほどまでにか?」と思うほど、放置されている姿が、浮き彫りにされる………。 

 1997年春に神戸で連続して起きた「酒鬼薔薇」事件が、本書執筆のきっかけとのことだが、最近の秋葉原や八王子での「誰でもよかった通り魔事件」を引き合いに出すまでもなく、毎朝、新聞を開けるのが怖いほど、類似の事件が続いている。

 そのたびに本書のような悲惨な被害者が、次々と生まれていることに心が痛むし、それが、少年事件であれば、なおさら、被害者感情のたたでさえ無残な傷跡に、なお残酷なほど塩を上塗りしている少年法の課題が覆いかぶさり、やりきれなさが募る読後感となった。

 ちなみに「心にナイフをしのばせて」とは、この本のインタビューの主体となった被害少年の妹が、「いつか必ず加害者に会ってみたい」と、そのときのために、心の奥底にしのばせている「ナイフ」を表現している。これはもちろん彼女だけでなく、彼女の父も母も、それぞれの心の奥深くたたみこんでいて、絶対に消し去れない痛恨の心であろう。

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2008年7月31日 (木)

「希望のニート」(二神能基、東洋経済新報社)

Kibonito  先日、仕事でいつも通りかかる八王子の駅ビルで、30才過ぎの男が、書店アルバイトの22歳の女性を、「誰でもよかった」と、刺し殺す痛ましくも、なんとも、いたたまれない事件が起きました。亡くなった女性の命が、こんな形で奪われたこと、ほんとうに悔しく悲しく思います。真夏の暑い駅ビルの前の祭壇には、今も、献花が絶えず、私もささやかなお悔やみを致しましたが、若い命が戻るはずもありません。

 犯人の男が,今回紹介する「希望のニート」という本の、いわゆる「ニート」なのか、さらに、この本の主題である「ひきこもり」だったのか、正確にはわかりませんが、今社会問題となっている、ニート・ひきこもりに関する、「現場からのメッセージ」として、示唆に富んだ1冊でした。

 「15歳から34歳までで、学校卒業後に職探しも通学もしない未婚の若者」が、ニートの定義ですが、もともとは1997年にイギリスで、当時深刻だった若年失業問題に取り組む中で、「Not in Education、Employment or Training」の頭文字をとったと云われます。

 この本では「ニート」を次の3つに分けられるとしていて、この問題を理解するのに、たいへんわかりやすいと思われました。

  1. 就労についてのきめ細やかな情報を必要とする層(情報力必要型)
  2. 就労以前に、人間関係が苦手で社会に出てもすぐに挫折しそうな層(社会力必要型)
  3. さらに生きていること自体にあまり喜びを感じられない層(人間力必要型)

 3つの中では、「3」が最も深刻なわけで、原因か結果かはともかく、ニートの周辺には、「生きていること自体にあまり喜びを感じられない」今の若者の困難な問題があり、その多くが「ひきこもり」となっている状況が、あらためてよく理解できます。

 私の仕事の関係でも、また知人の中にも、「ひきこもり」「ニート」のお子さん(と言っても、もう30代後半の方もいる)を現実に抱えて、いわば無間地獄のような状態で悩んでおられる姿を、耳にします。この本では「格差社会」「企業の雇用形態の変質」「核家族化」「家族や地域社会における希薄な人間関係」など、さまざまな、現場からのメッセージを絡ませながら、「ニート」「ひきこもり」をわかりやすく、かつ本質を見えるように、示してくれておりました。

 ふりかえれば、われわれの若いころには、「高度成長」「終身雇用制」というような、社会や職場に対する安心感が、存在していたと思います。今と比べて、当時の若者にとって、努力すれば未来が開けるという希望の持てる社会だった。

 ところが、今の、さらにこれからの若者には、「情報化」がどんどん進んで、自らの選択肢が広がる一方で、「成果主義」「雇用不安・派遣労働の広がり」「企業や役所の成功者が一転犯罪者となる現実(食品偽装、高級官僚の収賄など)」「環境問題や不確実な未来」などが、曖昧模糊とした形で広がっていて、そうした不安心理に脅かされているうちに、「ニート」「ひきこもり」となっているのではないかと思います。

 こうした時代だからと言って、今回の事件の犯人を許すことでは決してありません。ですが,幸せな時代を過ごしたわれわれにとっても、現実に、わが子のことに煩わされているといった、次の世代の悩みを抱え込んでいたり、さらに孫世代には一層この状態が顕著になるかも知れないことを考えると、この閉塞感をなんとか打開したいと、強く感じされられる本でした。

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2008年6月 8日 (日)

カラマーゾフの兄弟1 (ドストエフスキー)

Karamazof1  買ってから半年以上積ん読にしていた、「カラマーゾフの兄弟」の第1巻を、ようやく読んだ。

 この間2月~3月に、訳者の亀山郁夫氏(東京外国語大学長)が出演した、NHK教育TV「この人この世界」で、「罪と罰」などとともに、ドストエフスキーを解説し、関連して、エイゼンシュテインや、ショスタコーヴィチをとりあげた、「悲劇のロシア」という、興味深いシリーズ番組があり、これを見ながら、カラマーゾフは、たいへん気になっていた。

 どうにか5分冊のうちの1冊目を読み終えたのだが、なかなか難解で、この長編のテーマは何なのか?、わが頭の中は、今日の梅雨空みたいに、もやもやしている。まあ、はじまったばかりなのだから、おもな登場人物の輪郭や相関図くらいが、イメージできればいいと、ゆったりと構えなければ、いつでも途中で投げ出してしまいそうな状況なのだ。

 当のドストエフスキーも、冒頭の「著者より」で、人を食ったようなことを書いている^^^『むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の2ページ目で本をなげだし,二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何がなんでも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者もいる。たとえばロシアの批評家というのは、押しなべてそういう連中である』^^^。

 こんな風に言われたら、投げ出すわけにはいかないし、どうやら、曖昧なことがらを、いっぱい残しながらでも、読み進めばそのうち、何かが見えてきたり、自分なりに、マークすべき点が、いろいろ見つかるだろうと、ともかく読み進むことにした。

 Karamazofshiori1 Karamazofshiori2 文庫本の格巻にサービスされている「栞」の、おもな登場人物表は、たいへんありがたい。ストーリーを見失いそうになるたび、見返している。それでも、たとえば、次のような文章、アリョーシャがカテリーナ宅を訪問する場面での文章なのだが、いったい、何を言っているのか、訳者も、わかっておられるのか?疑いたくなってきて、よく似た表現に出会うたび、混乱し戸惑うのである。

 ^^^『あれほど好きな男のせいで彼女がいま置かれている悲劇的な立場は、当人にとってはまるで秘密どころか、ことによると彼女はもうすべてを、完全に何もかも承知しているかもしれないと。にもかかわらず、彼女の顔が光と未来への大きな信念に満ちあふれていたので、アリョーシャは、彼女に対し、そんなふうに意識したのをとても悪いことのように感じたのだった』^^^ (第3篇10、二人の女) 

 訳者がTV番組「悲劇のロシア」で言っていたことを思いだす。「おそらくドストエフスキーは、、われわれには及びもつかない恐ろしい『地獄』を抱えていたが、正面きってそのすべてを書くことができなかったし、また書こうとも思わなかった。それらは、言葉にならない巨大な感情であり感覚であり、混沌とした思想であり、あるいは危険な性向であって、死ぬまで心の奥深くに隠し持っているべきものだったのだろう」。

Karamazofe2 Karamazofe1_2  第1巻は、時間的には、ある1日に限られていて、その日の昼前から深夜にいあたるまでの間に、おもな登場人物が、すべて顔をそろえる。父親、3人の兄弟、父親の使用人と下男、彼らと入り組んで交流のある3人の女性、そして、ゾシマ長老………。ロシア名の煩雑さは、「罪と罰」でおおよそ慣れているので、それほど苦にはならない。

 個別の記憶では、第2編「場違いな会合」の章で、教会と国家のどちらが優先されるべきかを巡って熱心に議論が交わされるところが、印象に残った。教会が裁判など国家の任務を代行し、国家の上位に立つべきだ、との考え方は、ドストエフスキーの思想なのだろう。一生懸命筋書きを追っていると、時折このように、作者の歴史観や、思想信条みたいなことを、登場人物が語リ始めていて、やれやれという思いだが、これはこれで、含蓄がある。

 このあと、ドストエフスキーから、なんとか離れないで、この小説と、取り組んでいくことにする。ふりかえれば、夏目漱石も最初の頃はそうだったし、今でも、読み返すたび、漱石には新しい発見がある。幸い、この本には訳者の「読書ガイド」があるし、第5巻には、年譜、解題、訳者あとがきなどが、ずいぶん丁寧に付いているので、今後、活用できるのではと期待している。

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2008年2月 6日 (水)

大黒屋光太夫(吉村昭)

Daikokuya 昨年夏サンクトペテルブルグのエカテリーナ宮殿を訪ねたとき、次の記事を書きました。

……江戸時代、伊勢の廻船の船頭大黒屋光太夫が、1782年に嵐のためアリューシャン列島の孤島に漂着、苦労の末首都ペテルブルグのこの宮殿でこの部屋でエカテリ-ナ2世に謁見したという。1792年に願いかなって、遣日大使クラスマンに伴われて帰国出来たということだが、遠い昔の遠い異国、日本人の祖先の話の現場がここで、目の前に大女帝がいたと、チラリと想像してみたのである。極東のアリューシャンからカムチャッカ、そして気の遠くなるようなロシアの北の都まで、いったいあの時代、歩いていったのか、橇か馬車でもあったのか?井上靖「おろしや国酔夢譚」 、吉村昭「大黒屋光太夫」などの小説があることを知ったので、いずれ読んでみたい………。

Daikokuyamap  今回吉村昭の「大黒屋光太夫 上・下」を読みました。帰国後に、蘭学者桂川甫周が幕命によって光太夫の陳述をまとめた「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」や、もう一人の帰国者、光太夫の配下であり水主(かこ)の磯吉の陳述を記録した「極珍書(ごくちんしょ)」「魯西亜国漂泊聞書(ロシア国ひょうはくききがき)」などの歴史文書をもとに、丹念に描き上げられた、読みごたえのある1冊でした。

 苦難のすえ、光太夫はペテルブルグのエカテリーナ宮殿で、女帝に謁見する。

Ekaterinajotei ̴̴̴光太夫は、臆してはならぬと自らをはげまし、女帝の耳にも達するようにはっきりした口調で話しはじめた。故郷の白子浦を出船してから大暴風雨に遭遇し、舵、帆柱を失って漂流、飲料水が尽きて雨水を貯め、渇きを免れた。その間に水主一人が死亡し、辛うじてロシア領アミシャッカ島に漂着。この島に出張していた商人の手代に保護されたが、風土と食べものがなじまぬため、7人が次々に息絶えた。

 その後カムチャッカに移されたが、そこでも3人が病死し、、オホーツク、ヤクーツクを経てイルクーツクに送られた。その旅の途中、想像を絶した激しい寒気で水主の一人が左足を凍傷におかされて手術で切断され、光太夫が、キリロ(光太夫の援護者)とともにイルクーツクからペテルブルグに出発する直前、さらに水主がもう一人死亡した。今では日本を出た時の17人が、5人になりました̴̴̴

 女帝は「オホ・ジャウコ(かわいそうに)」「ベンヤシコ(哀れな者よ)」と述べ、日本帰国を許可し、手厚くもてなすように指示する̴̴

 この時代、光太夫の前にも、ロシア領に漂着した日本人が何人もあったが、ロシアはその南進政策の中で、彼ら日本人を日本語教師として、ロシアにそのまま、住まわせ、帰国させなかった。女帝との謁見で、光太夫がはじめて、帰国を許されることになる。「日本に帰りたい一念」を貫徹した光太夫の強靭な意志と体力が、実を結んだのだった。

 生き残った5人のうち2人は、それまでに耐えきれずに、ロシア正教に帰依し、キリシタン禁制の日本には、帰国できなくなる。

 そしてついに根室に帰り着いた3人のうち一人も、故郷を見ずして病死、結局江戸と故郷伊勢の土を踏むのは、光太夫と磯吉の二人のみとなる。漂流後日本に帰るまで10年、そして、故郷に帰るまでさらに10年の、長い上・下の物語が終わると、「やれやれ、よかった」という安堵の思いに駆られました。

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2008年2月 2日 (土)

漱石の死生観、「硝子戸の中」から

Kokorosouseki2  漱石の「硝子戸の中」を拾い読みしています。晩年の身辺雑記であり、彼の世の中で出あった人さまざまの印象録ですが、その「二十二」に、胃病に悩まされた日々をつづりながら、生きるということ、死をどうとらえているのか、について、なるほどと、思わず感じてしまうところがありました。そのまま、コピーしてみます(青空文庫から)。

 …… ……… ………

この二三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病気をする。そうして床についてから床を上げるまでに、ほぼ一月の日数を潰してしまう。(中略)

  私の立居が自由になると、黒枠のついた摺物が、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽などを被って、葬式の供に立つ、俥を駆って斎場へ駈けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交っている。

 私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。
 私としてこういう黙想に耽るのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地や、身体や、才能や――すべて己れというもののおり所を忘れがちな人間の一人として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。

 或人が私に告げて、「他の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々斃れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴かされた時に、こんな問答をした覚えもある。

「ああして始終落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖いだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」
「ところがそうでないと見えます」
「なぜ」
「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」
 私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。(以下略)

 ⁂⁂⁂⁂⁂

 たしかに、自分も相応の年になりながら、他人の死を、まさに「他人事」と考えて、自分には関係ないと、そのときは放り投げていたり、とりあえずは別のことに気を紛らわせようとしているのが日常で、ひとたび自身が思わぬ病気になったり、ちょっと健康診断で精密検査が必要と指摘されただけで、平常心を失っている有様です。

 あさはかなものですね。

 ⁂⁂⁂⁂⁂

 関連して、「徒然草」の、吉田兼好は、次のような一節を書いています。

Tureduregusa3 ーー「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏より既に秋はかよひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も蒼くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたるゆゑに、待ちとるついで甚だはやし。

 生・老・病・死の移り来る事、またこれに過ぎたり、四季なほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとしーー。(第155段)。

 ⁂⁂⁂⁂

 兼好のは、厳しい死生観です。生ある物を支配する『生老病死』は、順を追って現れるとは限らず、突然に死の到来することがある、と強調しています。死の意外な早さを言う『後ろに迫れり』や潮の比喩は、衝撃的です。いずれ、兼好の言が誇張でないことを自ら体験することとなり、兼好の卓見を反芻することになるのでしょうが、きょうのところは、漱石先生の実感あたりで、思考を止めておきたいところです。

<注>死生観:①生ある限りは充実した毎日を送って行こうという抱負。②人生の終末としての死についての、その人の考え方(新明解国語辞典:三省堂による)。

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2007年12月27日 (木)

「絹と明察」(三島由紀夫)

Kinutomeisatu  日経夕刊「文学の周辺」で、彦根城が舞台となっている三島由紀夫の「絹と明察」が紹介されていて、読んでみました。彦根は40年余前になりますが、縁あって仕事をした街で、今年の彦根城築城四百年祭にも、訪れました。

 物語は昭和29年にはじまる近江絹糸のいわゆる“人権スト”に取材したもの。この争議は、私が小学校から中学に上がるころ、その本質はわからなかったけれども、身近な大ニュースとして、連日報道されていた記憶があります。三島由紀夫39歳の時の作品。

 三島由紀夫の闊達な筆遣いで、戦後の労働争議の頻発、各産業の組合紛争、その過程の高度成長、アメリカ流の経営学と古くからの日本の家族主義的経営の相克などが、登場人物である当時の経営者達やマスコミ、組合活動家、働く若い男女、そして芸者から足を洗った寮母、さらには政財界の黒幕的人物などなどに託して、古いモノクロ映画を見るように伝わってきました。

Tennshukaku Gennguuenn  物語には彦根城や城内の玄宮園、琵琶湖の風景(いわゆる近江八景も)などが、繰り返し出てきて、たいへん懐かしかった。登場するワンマン社長駒沢善次郎と対峙する、組合のリーダー大槻が恋人弘子と待ち合わせる城内の一隅や、その二人が駒沢社長と初めて会うことととなる玄宮園の佇まいも、あたかも自分がその舞台に、いるような感じでした。

Shatihoko  外遊中に争議勃発の報を受け、「帰国して話せば解る」と自ら労働者の面前に出て、手ひどく強烈な反発にあった駒沢が、彦根城の天守閣に上る場面で、写真の「しゃちほこ」が登場します。

 『最上階へ昇る階段の踊り場に、むかしの鯱が飾られていて、狭間のあかりがそこへわずかに届いている。駒沢は通りすぎざま、その薄闇にたけだけしく尾を立てている茶褐色の怪魚の顔をちらりと見た。十八世紀初頭の宝永年間の改築の砌、取り換えられたその元の鯱がこれだと解説に書いてある。天守閣の屋根の頂きに朝陽夕陽を受けて金色に輝いていたものが、取り払われてから二百数十年のあいだ、こうしてここに無為にすごしてきた姿を、駒沢は忌わしく見た』………意に反して時代の趨勢から退場を強いられる駒沢を象徴する場面として、三島の筆致は心に迫ってきました。

 争議は経営側すなわち駒沢がとうとう屈して、中労委の2度目の斡旋を呑んで漸く収まる。そこで三島は次のように描く……『今彼らは、克ち得た幸福に雀躍(こおどり)しているけれど、やがてそれが贋ものの宝石であることに気づく時がくるのだ。折角自分の力で考えるなどという怖ろしい負荷を駒沢が代わりに負ってやっていたのに、今度はかれらが肩に荷わねばならないのだ。大きな美しい家族から離れ離れになり、孤独と猜疑の苦しみの裡(うち)に生きてゆかなければならない』……

 “禍福はあざなえる縄のごとし”、当時の理想だった近代個人主義のその後の混乱と破産に近い状況、やがて人々は、自分で考え自分で行動することに疲れて、いつの日か駒沢の樹てていた大きな家族のもとへ帰ろうとする。そここそは我々日本人の故郷であり、そこで死ぬことが人間の幸福だと気づくだろう。再び人間全部の家長が必要になるのではないか……三島は問いかける。

 今年の政治混乱の中で「美しい国」なる未熟な宰相のスローガンは、あっけなく雲散霧消しました。しかし、戦争を経験しない戦後世代が、かえって保守回帰を望む底流は消えたわけではない。この小説は、東京オリンピックの頃に発表されたものですが、三島は現在にもつながる、そうしたわが国の根の浅い民主主義、さらには統治のあり方をも、あらためて考えさせる深みをも、持っていたように感じました。

<*>彦根城の写真は2004年春、城に上ったときの撮影です。

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2007年12月14日 (金)

「父・夏目漱石」(夏目伸六)

Titinatumesouseki_2  漱石は生涯に二男五女をもうけています。順に筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、雛子であり、この本は、漱石42歳のときに生れた6番目の伸六によって書かれた、直系実子の家族物語でした。ちなみに、「伸六」とは「申の年に6番目の人間として生れた」という意味だそうで、漱石が50歳で亡くなったときは、9歳だったということになります。

 さきに(11月9日)に孫の房之介氏の「漱石の孫」のことを書きました。この本は、その一世代上で、9歳の時に亡くなったとはいえ、父・漱石とともに生き、叱られ、養われ、慈しまれた人の実体験本でした。漱石の生身の実像がさらに鮮明に、また、母である鏡子夫人、漱石家に出入りした森田宗平・鈴木三重吉・小宮豊隆はじめ多くの弟子達との交流が、いきいきと綴られていました。

 父、すなわち漱石の臨終の様子は、筆者がすでに9歳になっていただけに、そのままリアルに伝わってきました……。「父が息をひきとったのは、暮れやすい冬の日が、いつのまにか、もうとっぷりと暮れてしまった、その日の夕方の七時ごろであった。父の書斎から、玄関に通じる暗い廊下にまで、一杯に立ちつくした無数の人の姿を、私は、今でもはっきり思い出すことが出来る。……『いい子だから、泣くんじゃない』と、すすりあげる子供達を慰めた父は、果たして、この私までも、そのうちに数えていたのだろうかと、時々考えることがあるのだけれど、恐らく、死にぎわに、私の顔を見て、笑顔を見せた父としては、きっとこの子も、自分のために泣いているのではないかという気がして、さすがに、その時の自分の気持ちが思い返されるのである」…

 怖かった父のこと、父と弟子達の交流、父と母のこと、など、漱石の逸話に事欠かない中味でした。なかでも、最後のほう、世に「悪妻」といわれた鏡子夫人、つまり、著者の母について、むしろ母あっての漱石、漱石自身も、鏡子夫人に依存していたのだというような、息子ならではの真情が綴られていて、大いに納得させられました。

 怖かった記憶で、子どもの頃、兄と二人で父に連れ、電気仕掛けの軍艦を射撃する小屋がけの場面がある。兄が父に早く撃てといわれて、「羞ずかしいからいやだあ」と尻込みしたのに続いて、「それじゃあ伸六お前撃て」といわれる。「羞ずかしい……僕も……」と続いた途端、、はっとした時には、すでに父の一撃を頭にくらって、湿った地面の上にぶっ倒れていた。その私を父は下駄履きのままで踏む,蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り下ろす…

 後になってそれが、漱石が生来の激しいオリジナルな性癖から、絶えず世間一般のあまりに多い模倣者達を、心の底から軽蔑していたからなのだと思い当たったとあるが、それにしても、異常・病的とも思える父の記憶が語られていた。

……… …………

慶応独文科を中退、中支満州などに応召、戦後ジャーナリストから、随筆家になったという、伸六氏。あまり、著作に熱心でなかったようだが、この書の文章はあざやかで、大いに文才があったのだと思う。この本はいま絶版らしいが、ぜひ、一読をおすすめしたいと思います。

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