3月15日のブログで、芭蕉としぐれの句について書きました。その後、「芭蕉DB」の俳句集(伊藤洋氏製作:後記)を調べてみましたら、全部で、20句がありました。
その20句を、時代順に、整理してみます。句の解説などは上記に拠り、プラスして私の感想を*で書いてみました。ゴルデンウイークに入ったいま、しぐれは季節外れですが、芭蕉にご関心がある方、ご一覧ください。
時雨をやもどかしがりて松の雪
時雨が何度降っても松は紅葉しない。それをもどかしがって雪が松を真っ白に染め上げたのであろう。紅葉しない松と「待つ」ことをもどかしく思う気分の語呂合わせ。寛文6年、23歳の若い作。(続山井)
*若い頃から、色々句作を試していた様子がわかります。
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一時雨礫や降って小石川
江戸小石川は、時雨がさっと降ってきて、そのとき石つぶてが川となったから小石川だというのかしら。なんの面白味もない句である。そもそも「小石川」は、小石の多い小さな川だったのでこう呼んだとされている。
なお、芭蕉はこの頃、神田上水浚渫工事の管理業務を請け負っていた。だからしばしば小石川後楽園や江戸川小石川上水、水道橋、関口大洗堰あたりを歩いていたのである。
延宝5年、芭蕉34歳の時の作。芭蕉は、この年に俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したらしい。(六百番俳諧発句合)
*江戸に出て色々苦労のあと、どうやら方向を定めた芭蕉の姿。
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いづく時雨傘を手に提げて帰る僧
ここでは雨は降っていなかったが、あの坊さんはびっしょりと濡れた笠を持って歩いている。一体どこで時雨があったのだろう。
冬の到来を告げる時雨の持つ寂寥感を貧乏僧侶の濡れた笠を通して表現する、芭蕉初期の傑作の一句。延宝8年、芭蕉37歳の作。(真蹟短冊)
*漢詩の「僧寺に帰る」が伏線にあるという句でもあり、雰囲気が大変よくわかる。
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草枕犬も時雨ゝかよるのこゑ
時雨の夜の犬の泣き声。この時代、犬はペットであるよりも街中の犬と同じで、人間世界に紛れ込んで住んでいる共同生活者ではあるが、人間とは棲み分けて生きている動物であり、いわゆる野良犬なのである。
芭蕉も、もとより帰る家はない草枕である。我もまた草枕、旅にしあれば、そぼ降る雨の中の犬の気持ちがよく分かる。 (野ざらし紀行)
*孤独感と、なんとか頑張るぞと云う意地が見える。
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雰しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き
この旅は、定型から脱し、芭蕉芸術を確立していく過程。定型にならざるを得ない富士の景色は敬して遠ざけたいところだが、幸い今日の富士は霧しぐれの中に隠れている。それにしても芭蕉ほど富士を読まない歌人も少ないのではないか。それでいて、目には見えない富士が芭蕉の心にははっきりと見えてもいる。 (野ざらし紀行)
*句の意味がいまひとつ理解できない。
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笠もなきわれを時雨るるかこは何と
旅のみちすがら突然時雨がやってきた。私は傘を持っていない。これは困ったことになったわい。時雨は冬の到来だが、日本文学の世界では風流の最高の一つである。突然襲われた時雨に傘も無くて困ったといいながら、「こは何と=なんとなんと」と興じたところに俳諧がある。それにしても、結語のいかにもかるっぽい弾み方は談林風の残滓であもる。
貞亨元年。『野ざらし紀行』の途次熱田で。(熱田三歌仙)
*軽妙な感じの句。気持ちが弾んでいるときの句か?
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この海に草鞋捨てん笠時雨
ここ桐葉亭は海に近い。野ざらしを覚悟の旅も大詰めを迎えた。ここでしばらく休んでいこう。旅の命綱であった草鞋も笠もこの海に捨てて。桐葉の手厚いもてなしに安堵した気持ちがにじみ出ている句。
貞亨元年、41歳。『野ざらし紀行』の復路、名古屋熱田の桐葉亭に草鞋を脱ぐ。(熱田皺筥物語)
*自分を歓待してくれている(評価してくれる)人への感謝の句。
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旅人と我名よばれん初しぐれ
『野ざらし紀行』における句「野ざらしを心に風のしむ身かな」と比較した時、その精神的余裕は大変な相違である。『野ざらし』の頃と比べて芭蕉は既に十分有名であったし、これから先の伊賀までの旅路には多くの蕉門の弟子たちが師の訪れるのを手ぐすね引いて待っている。
「時雨」は、「定めなきもの」の象徴としてここに提出されているが、悲壮感はない。むしろ、この旅は、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、・・・」尊敬する旅人達と自分との対比を意識するぐらいの心境ではないか。 (笈の小文)
*人生の最盛期の意気込みが躍動している感じ。
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一尾根はしぐるる雲か富士の雪
沢山の冬の山々が見える。その中には尾根が黒雲におおわれている山がある。あれはきっと時雨がやってきたのであろう。その山なみの風景の中に真っ白に雪をたたえた独峰富士が立っている。
古来、富士山を雄大に描ききった名句として称えられてきた一句。
貞亨4年11月、『笈の小文』旅中。周囲に連山を眺望しながら富士が屹立している景であろうから、箱根付近での嘱目吟かと思われる。(泊船集)
*しぐれの句の中で、私の感覚の中にいちばんわかりやすく入ってきた句。
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初時雨猿も小蓑を欲しげなり
伊賀越えの山の中で初時雨に遭遇した。自分はさっそく蓑を腰に巻いたが、寒さの中で樹上の猿たちも小蓑をほしそうな気振りに見えることだ。
この一句、決して動物愛護の精神から猿にも防寒用の蓑をやりたいものだと言っているのではない。初時雨や哀猿は、古来日本文学のキータームであった。芭蕉はこれを俳諧化して「小蓑を欲しげなり」としたのである。
元禄2年9月下旬の作。作者46歳。『猿蓑』撰集の冒頭句に掲出した句。『猿蓑』の其角の序には;
「只俳諧に魂の入りたらむにこそとて、我が翁行脚の頃、伊賀越えしける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入れたまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此の集をつくりたて、猿蓑とは名付け申されける。」
とある。
また、芭蕉真蹟では、「五百里の旅路を経て、暑かりし夏も過ぎ、悲しかりし秋も暮れて、古里に冬を迎え、山家の時雨にあへば」と前詞がある。『奥の細道』の旅を終えて帰郷の折、伊賀越えの山中に初時雨にあって詠まれたものとされている。芭蕉最高傑作の一つ。
*芭蕉の俳諧哲学の真髄の句のようですが、それを理解するには私はまだ勉強不足。
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人々をしぐれよ宿は寒くとも
配力亭で伊賀の連衆が集まって歌仙を開いている。皆、俳諧の世界に没入して先程来一座はしんとした静寂に包まれている。ここに時雨が皆を包んだらなお一層侘びの情緒が醸されるであろう。寒くてもその方がこの場に相応しい。実に芭蕉は時雨の詩人であった。
元禄2年晩秋。伊賀上野配力亭にて伊賀蕉門の殆どが集まったとされる歌仙が催された。配力は杉野房通、伊賀藩作事目付け。伊賀蕉門の門人。(蕉翁全伝)
*一座の人々が「座の文藝」を堪能している、ややレベルの高いサークルの様子です。
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茸狩やあぶなきことに夕時雨
きのこ狩りに行って帰ってきたら時雨が降り始めた。もう少し山中に居たら危なく降り込められるところであった。
元禄2年晩秋。『奥の細道』の旅の後、伊賀上野で。体験か画讃のためのフィクションかは不明。「真蹟画賛」の画は許六筆で後に許六と親交ができてからのものである。(真蹟画賛)
*肩に力が入っていない句。いっぽうさほどの緊張感も感じられない。
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山城へ井出の駕籠借る時雨哉
山城へと旅を続けていたときに予期せざる時雨がきた。ここは歌枕として有名なところだからゆっくり行きたい所だが時ならぬ時雨に急かされて、駕籠を呼んで立ち去らねばならない、というのである。
この時期の作品としてはあまり良い出来とはいえない。 (花摘)
元禄2年12月。井出(京都綴喜郡井手町)。ここは「蛙」の名所と言われている。京都から奈良へ向かう街道筋。(韻塞/續猿蓑)
*せわしげな旅の様子が伝わってくる。
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しぐるるや田の新株の黒むほど
故郷伊賀は冬を迎えようとしている。時雨がやってきて急に寒くなった。今年の秋刈り取った稲田の切り株が黒ずんで冬は本格的になっていく。
元禄3年、47歳。伊賀上野で。(記念題)
*「故郷の山に向いていうことなし」、故郷への愛着が感じられます。
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作りなす庭をいさむる時雨かな
規外の本龍寺では丁度庭園を作り変えたばかりである。「いさむる」は、「励ます」・「慰める」・「生気を与える」などの意。未だその土も木もしっくりと落ち着いたとはいえない新しい庭にその喧騒を落ち着けようとでもするかのように時雨が静かに通り過ぎていく。いつの日か、苔むしたしっとりとした庭になることであろう。(真蹟懐紙)
元禄4年10月。元禄2年以来の上方住いを終えて江戸に下る折、美濃の国垂井の本龍寺に立ち寄って詠んだ句。住職の規外(または矩外)への挨拶吟。このおり、芭蕉秀句「葱白く洗ひたてたる寒さ哉」がある。
*旅先の地への挨拶句。芭蕉の各地の人たちの旺盛なもてなしの精神が感じられる。
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馬方は知らじ時雨の大井川
芭蕉は既に川は渡って島田宿側に居る。対岸は金谷宿。この馬方は対岸の馬方のこと。芭蕉を金谷で降ろして馬方は戻っていったから、「川のこっちである島田の時雨は分かるまい」というのである。(泊船集)
元禄4年10月下旬。最後の江戸東下の旅の途中、島田の如舟宅に泊った折の作品。なお、この折については、『島田の時雨』がある。
*広い川を挟んだ時雨れ模様のなかの人の動きが絵画的で、わかりやすい。
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宿借りて名を名乗らする時雨かな
『奥の細道』の旅以来長期にわたる上方住いから江戸に下る旅の途次、島田の宿で塚本如舟のために書いた一文が『島田の時雨』である。
一句の意味は「宿を借りようとして、大声で名を名乗らせるのは突如降ってきた時雨の所為だ」というのである。
*長旅のヒトコマ。それにしても徒歩の旅の江戸時代、芭蕉の旅への執着は超本物。
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今日ばかり人も年寄れ初時雨
許六らを集めての句会に、折りしも初時雨が降ってきた。座の一同に向かっての挨拶吟である。古来、初時雨はめでるものであり、そのシンボルは「老い」を含意した。
元禄5年10月3日。赤坂彦根藩邸中屋敷で開かれた五吟歌仙での発句。これに許六が脇をつけ、「野は仕付けたる麦の新土」。(韻塞/續猿蓑)
*おたがい歳を重ねたという感慨と、同好の士の集まりでのくつろぎが感じられる。
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新藁の出初めて早き時雨哉
伊賀の冬の足取りは速い。稲の収穫が終わり新藁が出始めるころにはもはや時雨がやってくる。実にあわただしい冬への季節の移り変わりである。それだけにまた故郷の四季は懐かしくもあったのであろう。(芭蕉翁全伝)
元禄7年、51歳。『蕉翁全伝』に、「此の句は秋の内、猿雖に遊びし夜、山家のけしき云ひ出し次手、ふと言ひてをかしがられし句なり」とあることから、伊賀上野の猿雖亭にての作とされる。
*時雨れの季節、いっそう月日の過ぎる速さが感じられる。「月日は百代の過客」。
初時雨初の字を我が時雨哉
時雨は初冬に降る通り雨のこと。さーっとやって来て、「過ぎる」からきたという。晩秋から初冬にかけて最初に来た時雨を初時雨という。
一句は、初時雨がやってきました。その初時雨のように私もはじめて貴方のところにやってきました。初めて訪れた人への挨拶吟だろうが下五の「時雨」の意味がはっきりせずに成功したものとなっていない。
貞亨元年(41歳頃)頃から死の元禄7年(51歳)までの間。 (俳諧粟津原)
*「しぐれ」は「過ぎる雨」から来たという語源。ややわかりにくい句。
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**こうして「時雨」の句」を通覧してみて、芭蕉の生涯を駆け足で追っていくような感じがしました。「一尾根は」(笈の小文)と「猿も小蓑を」(猿蓑)の間に、奥の細道の大旅行が入り、これを附加することにより、私の芭蕉史が一段と深まりました。陰暦10月12日に没したことにより、10月の異称時雨月にちなんで芭蕉忌が「時雨忌」とも呼ばれますが、あらためて「芭蕉としぐれ」の縁を感じました。
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<参考資料:伊藤洋氏 製作・著作 芭蕉DB
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm>
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